ストーリー
赤い本を見よ 浅田彰
『中国女』は赤の映画である。赤の思想を描いているから?それだけではない。 その水準だけでみれは、この映画は、1968年に流行した毛沢東思想を賛美したものとも、毛沢東思想にかぶれたブルジョワの子女を揶揄したものともとれ、いずれにしても徹底性を欠くということになるだろう。むしろ、この映画の力は、赤を文字通りの赤として示すところにある。
そう、メタフォリカルにではなくリテラルに。そこでは、政治状況が分光器にかけられて色分けされ、提示されてゆくのだ。ブルジョワのアパルトマンの白い壁と、そこに並ぶ赤い毛沢東語録。その鮮やかなコントラストがすでにすべてを示している。「この赤い本を見よ」とゴダールは言う。振り返ってみればあの時代、われわれは、毛沢東語録を伝える北京放送を、ウォーホルの描いた毛沢東の肖像のようにポップなものとして聴いたのだった。『中国女』は、その鮮烈な赤によって、ポップ・アートをも凌駕してみせる。だがそれは、プロパガンダでないのと同時に、パロディでもない。その色彩による政治学は、いま見てもウォーホルと同じくらい新鮮で、しかもどんな歴史書よりも立体的に当時の状況を提示してくれるのである。
この赤の映画がニュー・プリントとなって蘇った。生まれたてのように鮮やかなその赤を見ながら、陰鬱な混色の時代を生きるわれわれは、あの赤の時代を昨日のことのように思い出す。その赤は、しかし、混色から抽出されるべきものとして、今日の現実のなかにも確かに存在しているのだ。赤の映画である『中国女』はわれわれにそのことを教える。