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カリスマ
披露試写トークショー 黒沢清監督/宮台真司(社会学者) 2000.02.22 テアトル新宿 |
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宮台真司:こんばんわ。この映画は喜劇、コメディと司会の方がおっしゃったんですけど『人間合格』に共通している気がするんですよ。僕の解釈を申し上げるのは申し訳無いのですが、たとえば『人間合格』であればポニー牧場にある夢が家族であり、病気の妻をケアする役所広司という背景が家族の空白を埋めるのですが何も無いという感じがあります。最近、オウム真理教を巡る地域住民との吹き上がりがあるじゃないですか。あれを見ると黒澤映画っぽいなって思うんです。元々地域共同体など崩れていて地域の絆も何も無いんですよ。そこへオウムがやって来るとあたかも地域の絆があったかのようの盛りあがるんですよね。家族でも同じように娘は親父のことを毛嫌いしてるのに、そこで何かが起こるとあたかも家族の絆があったように盛りあがるわけです。それに近いような感じを黒澤映画に感じていて、本作も家族とのスケールではなく世界全体を空っぽというイメージがあるので恐いニュアンスも感じたんです。 黒沢清:ただそれが僕のこの映画に込めた主張であるほど、はっきりとしたテーマ性があるわけではないのですが、むしろ今回は殆どが法律という場所を舞台にしてこの木が生えているというとこで人間を動かして行くといつのまにかたぶん中心であったはずの木とかそういうものがある日空っぽかもしれない、という、だんだん自分で気がついて行くという感じです。僕は映画を撮っていくことでは、最初にはっきりとしたビジョンがあるわけではなくて映画を撮っていく過程でだんだんわかっていくという流れを取っています。 宮台真司:今回の森の感触がとても独特なんですが、映画を拝見させて頂く前はうっそうとした原生林のイメージを抱いてカリスマという雰囲気があるのですが拝見させて頂くと相当寒い雰囲気がありますよね。森の感触というのが影響があって、黒沢さんの映画はよく壊れてしまった家のようなものもありますよね、こういうのはかなり解りやすい感触を与えてくれていますよね。 黒沢清:寒い感じという言葉にしてしまうほどではないんですけど、海外へ行けばもっといろいろな森があるかと思うのですが、日本では探してみますと北海道まで行けばあるかと思うのです。だいたい日本では山にあり、傾斜がきつくて森があるんですね。山ではなく森なんだという、奥が見通せる場所を捜していたんですよ。だいたい日本ではそういった場所は家があったりするのです。意外に富士山のあの辺りは木がまばらに生えていて、日本で森というのはこういった場所なのだと思いました。 宮台真司:カリスマという樹木を巡る物語をモチーフにしようとしたのはアイディアは10年前にあったそうですがどういったきっかけで? 黒沢清:何が最初だったかというのは定かではないのですが。まずひとつ憶えているのはインディ・ジョーンズの映画の構造で宝の奪い合いからヒントを得たのもあります。しかし宝物を日本で撮るというには日本だと世界中へ逃げてしまうということになって、それでは困るし、動かしづらい宝物だと何だろう?と思ったわけです。ということで一本の木という案から思い付いたわけです。そして一本の木から人間はどういう価値観を見出すだろうと思いました。価値観やモラルというのはバラバラでいろいろな道がありどれも正しいし、どれも間違っているという複雑な思いがあるんですね。 宮台真司:たとえばカリスマという特別な木か、森全体か対立があって、本作の最後では実はそれ事体が役所広司対世界っていうふうな感じも取れますよね、それがとても興味深いんですけど。後の話に繋がるんですけど、僕はSFが好きなんですけど、もしかしたら黒澤さんはSF映画を撮りたかったんじゃないかな?って思ったりしてるんですよ。つまりたとえばブラットリーという短編で男が草原で草を刈っているんですけどこの行動で現実社会で人が死ぬってことと連動しているんです。単に草を刈っているんだけど神の振る舞いでどの草を刈るかを決めることで誰が死ぬことが決まるという二重構造があるわけです。ひとつ思い出したのがトマス・エームディッシュという作家の作品でカップルが広大な霊園に来て出れなくなってしまうという話があるんですね。その類似性というよりも本作とモチーフがSFにあるんじゃないか?と思うんです。本作のラストで役所広司演じる男がが自由になるんですけど自由になったら世界は滅びているという可能性が暗示されているんです。とても自由と言うものの代価というのを訴えかけているのがこの映画だと思います。フランスなどでウケる理由のひとつだと思うんです。 黒沢清:僕は自由という言葉には惹かれますが、僕が唯一思い当たるのが楽天性で、この映画を観た方で非常に比較的なラストですね、と言われるんですが、僕は楽観的なラストだと答えるんですよ。その中で僕が思い付く理屈というのは“世界が滅びることなんてない”という考えですが一見楽天的に見えますがまだ本当の楽天的には至ってないんです。本当の楽天主義者というのは“世界が滅んでも構わない”と考えていることだと思うんですよ。ですから最後に役所広司さんが恐るべき楽天性を演じたわけです。 宮台真司:二、三年前に『蜘蛛の瞳』『蛇の道』の二部作を撮られましたがそれとはまた別に『CURE』と本作が二部作に感じられる部分があって『CURE』で“自由になりたくないのか?もっと初歩的になれ”というメッセージを発して、やはり役所広司さん演じる男がどんどん自由になっていく感じがあって、殺戮者になることと同じことなんだという暗示があるような気がします。僕たちに『CURE』という作品に震撼してしまう、あるいは共感してしまう感覚があるんです。今回のことで言えば洗脳されるというよりもカリスマ性に惹かれるんだと思うんです。 黒沢清:これがモノを作っている人間の器用なとこで、私生活は驚かれるほど僕は平和主義者であり、ただ人間ってそういう隠された部分もあるわけですね。意識しているのであればうまく飼いならせるのでしょうが、自分では飼いならしてないので自分でも恐い結果を生んでしまうこともあります。そういう意味では無意識ですね。 宮台真司:黒沢さんがある種、ハリウッド映画を手本にしたジャンル映画を撮りたいんじゃないかって思ってるんですけど、木は○○○○モノで『人間合格』は家族再開モノですので家族再開を伝える基本的家族なんて日本には存在しないじゃないですか。お金が無いとか技術が無いとか日本ではハリウッド映画的なジャンル映画は撮れないとあると思うんです。しかしそれ以上に我々の感受性、社会的な条件のドラマを許さない、逆にそういうドラマを作り出すと結局、ハリウッド的な家族は日本は無いんじゃないか?と、空っぽになってしまうんですよね。 黒沢清:僕はそんなに様々なことを提供して来た人間ではないし映画を見て映画を作ることでどうしてもそういう風に物事を考えて来てしまった人間ですので、ハリウッドという映画を運命的に若い頃たくさん見てしまったという前提があるので、僕がどこまで愛してどこまで憎いのかわかりません。言葉ではすごく好きですし僕の中に潜んでいる何かがあるかもしれないし。やはり映画について語ってしまうと、思わぬ力を発揮することがあるかもしれません。映画っていうのは恐いことに実写であると、ある地域のある人間、状況にどうしてもそこに刻印されてしまうんですね。僕の映画にどれだけ社会に反映しているかわかりませんが。自分にはわからないものです。 宮台真司:映画的な欲望が黒沢さんの脱社会的な敵意を呼んでいるのかな?とも思いますし、あるいは別の言い方をするとたとえば黒沢さんの映画って最近は淡々系と言われてしまうんですけどよく観るとそうではない、というハリウッドへの野望も見え隠れしたりする気がします。強い黒沢さんの欲望があるから敏感にドラマを作れるんじゃないかと思います。 黒沢清:自分の欲望を自分のものさしで計れないので分かりませんが、いわゆる淡々系と言われる言葉には違和感があります。自分では淡々としているとは思ってません。僕が生きていて他に何か自慢することはありませんが、日々淡々としている現実は有り得ないと実感しています。その中で映画を作る欲望としましては、いつのまにか撮りたいと思ったものを撮っているわけですが、かつて昔ですが僕のような映画を撮っていた人はいなかったんじゃないか?と思うんです。収入の良い働きとして映画監督という仕事がある、ハリウッドでは富と名声と勝ち得る手段として映画を撮る人はいると思います。日本では僕を含めて若い方もそうですが、映画を撮りたい、という欲望以外に根拠が無いんですね。少なくとも日本映画は、撮りたいという欲望だけで支えている世界だと思います。僕を含めて自分が何を撮っているか冷静な判断が出来ない人もおりますので出来上がってからそれを言葉にしてくれる人こそ本当に望んでいます。 宮台真司:黒沢さんは本当に非日常タイプな人だと思うんですよ。僕自身も同じなのでとてもそれが伝わって来るんですよ。豊かな日常を送りたいとかの欲望ではなくてヨーロッパ系の欲望ではない感じがするんですよ。まさに廃墟的な映画や世界の弱い部分を描きながら葛藤があるようにも思えます。 黒沢清:確かに言われると気づくんですけど、本当に身の回りに撮影するってことは一切しないんですけど、観た事も無い風景で見た事も無い物語を描くのも嫌なんですけど。廃墟と言われてしまうのも分かるような感じですよね。 宮台真司:物理的に廃墟とかよく見つかるものだなぁっといつも不思議なんですが? 黒沢清:元々スタッフの協力もありますが、今回『カリスマ』で異様な建物が出てきますが、あれは栃木県にある元々は健康ランドみたいな跡地なんですよ。脚本上ではそんなことは一切書かれてないんですけど、多少大きな山小屋かな?と思ったんですよ。見た瞬間、ここにしようって決めました。東京近郊で廃墟、あるいは空き地みたいな場所を見付けるとその時に撮影しないと次は無くなってたりビルが建ってたりと風景が移り変わってしまうので、映画はその時に撮らないと昨日と同じ絵が撮れないのが現状です。ここで撮りたいという欲望が優先してしまうのが事実ですよね。まさに日本映画そのものかもしれません。 宮台真司:“カリスマ”という言葉は100年前に社会学者のマックス・ヘーゲルと言う人が言った言葉らしいのですがこの意味は財力、美徳とかその人が還元できない、非日常的な力っていう意味らしいんですけど。黒沢さんが今回『カリスマ』という題名の映画を作られて、そして僕も去年末からたまたまカリスマ論っていう記事を書いてたんですよ。それはどうしてかというと、つまり非日常タイプな空間体が僕にとって行き易い場所かと思うと困難になったり、とベターな場所になっていくんです。この映画の『カリスマ』を作られたことも結論的に欲望がよくわかるという感じもあり、恐い本質的なメセージもあると思うんですよ。カリスマ論もそうなんですけど、たとえばお金のある、権力のあるというのは自分の生活を保存しようとしてカリスマっていうのは非日常的なものだからカリスマひとりだけが生き残ればいいやっという考えがあるような感受性を持とうとしているんですね。だから社会学で言えば、新しい法律をつくっていけるんですけど、良いカリスマだけが残っていければいいんですがカリスマによってすべてが滅んでしまうってこともあるわけです。非日常的な力に感染するのは幸いなりというメッセージを受け取ってしまうんですが、いかがでしょうか? 黒沢清:今の社会から誤解されてしまうんですけど、作品から離れてそういうものだと言うしかないのですが。僕は何も世界が滅びようと最後にカリスマにすがればいいというようなメッセージを持っているわけではありません。内向的な人間でメッセージをあえて言えば、カリスマなんて言葉は誰の心にもあるんだよ、ってことだと思うんです。 宮台真司:だから、恐いとも言えるんじゃないんですか?感じ取れてしまうというか、そこが黒沢さんの作品だと思いますよ。 黒沢清:恐いものは恐いっていうのは誠実な答えだし、有り得ることだと思います。 宮台真司:僕が今日話していたのはひとつの解釈に過ぎませんし、いろいろな解釈があると思ってますし、黒沢さんの作品は何回も観て観れば観るほどいろいろな面が見つかり解釈も変わってくるという感じです。なのでぜひ何度も観て頂きたいと思っています。 本日はありがとうございました。 (取材:越智/文章:佐藤まゆみ) |
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