カンヌ映画祭でコンペ(本選)ともう一つの顔、それは「監督週間」だろう。  監督週間は、”併行週間”とも呼ばれ、コンペとはまた別の組織構成、予算編 成となっている。予算は、総額260万フランで、コンペの10分の1にも満たない。

それにTV局の補助、入場料などの売上を合わせ、350万フランとなる。
1968年の5月、フランソワ・トリュフォー、ジャン=リュック・ゴダール、ピエ ール・カストらといった若きヌーヴェル・ヴァーグの監督たちが、映画製作の自 由、検閲の廃止、コンペへの出品枠の拡大の3つを掲げてカンヌへのりこんだ。  
三番目の”出品枠の拡大”とは、それまでコンペに出品された作品は、いずれ も各国の政府筋や映画協会などの窓口を経たものであったことから生まれた不満 であった。つまり顔ぶれがいつも同じようになってしまっていたのだ。  

この騒動は”五月騒動”と呼ばれ、結局この年の第21回は途中中止となっ た。同年9月「SRF」(監督協会)が設立される。当時のカンヌ映画祭総代表、フ ァーブル=ル=ブレがSRFの映画祭への取りこみを画策する。当時の”常連”ば かりが毎年顔をそろえるコンペに、新しい刺激を与えようとする試みだった。  1969年、第22回映画祭で監督週間は始まった。この部門の総代表となった若き 映画人ピエール=アンリ・ドゥロはまったくこのような経験も知識も無く、しか し全権をまかされていた。そこで彼は、世界中の監督たちと連絡を取り合い、独 自のコネで60本もの映画を集めた。この独特のやり方は、今も堅持されている。  現在集まる作品は500本を越え、それらはすべてドゥロ自身が目を通し、独 裁的ともいえる彼の審査を経て、上映されるのは、20本くらいという非常に”狭 き門”だ。反対にいえばそれだからこそ創設時の自由な風潮が創設以来四半世紀 たった今も守られているのだ。
ただ、日本映画にはあまり監督週間に通じるルートがなく(大島渚監督などの 例外もいるが)、したがって出品作品も少ない。1985年出品の「お葬式」(監 督:伊丹十三)はそのもっとも端的な例だ。  
来日中のドゥロがたまたま入った映画館で観たこの作品に目をつけたのだ。  アート性と商業性だとアート性に比重をおくコンペに対し、監督週間の方が作 品がヴァラエティーに富んでいる(近年ではコンペでも商業性が以前より重視さ れるようだが)。

 

「”監督週間”は”自由な映画”を標榜し、”政治的配慮”、”商業的思惑”を 排除し、自由な立場で世界の知られざる監督たちを紹介する」ことを目的として いる。また総代表のドゥロは、「絶対に流行に乗らない」ことを明言している。 その結果、スパイク・リーやジム・ジャームッシュといったアート性と商業性とを 兼ね備えた監督たちを数多く排出している。  
監督週間は、プレス、映画関係者のみを対象としたコンペとちがい、一般にも 広く門戸を開いている。これが監督週間をもっとも人気の高い部門とした第一の 要因だろう。



 
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